札幌そば研究センター

2016年1月3日日曜日

そばとわたし(1) こんにちは (そば打ち語録)

2016年1月3日  こんにちは  (そば打ち語録)

 札幌新川そばの会に初めて伺ったのは、2014年5月17日でした。今から約1年半前です。初めてそば粉を前にして、YouTubeで見ていたそばを打つという作業を、今から実際にやってみるのだという不思議な状況に置かれたわけです。なぜ不思議かというと、私は物心がついた頃から、うどんを打つ作業や、餅をのす作業を良く見ていました。祖父が多趣味で、うどんや餅を良く家の縁側で、熨していました。四角い木の板の上で、棒を使って四角に熨されていく物体を良く見ていて、不思議だなと良く思っていたものです。何かを熨すという作業の手順は、3~4歳のころから良く見ていたのを覚えています。
 私の生家は、埼玉県の利根川沿いの小さな町で、鰻とうどんの町でした。家は街の中にあり、近所には鰻屋、うどん屋が沢山ありました。鰻屋は三軒が歩いていける距離にあったと思います。うどん屋もいくつかあったのを覚えています。いくつか年上の先輩の家が鰻屋で、良くウナギのかば焼きができるのを、店の前で見ていました。ここで頂いた鰻の味が、私の鰻の味になっています。この当時のウナギは、利根川やその支流の川で獲れました。この当時、ウナギ釣りに、夜に出かけたものです。この当時のウナギは、身が厚く脂がのり、それが甘辛のたれで美味しく仕上がっていました。この組み合わせが曲者で、脂質とタンパク質が糖と結びつき糖化しているうえに、焦がしているのでメイラード反応が起きて美味しいに決まっているわけです。ご存じのように、これが体で起ると「糖化現象」で動脈硬化の基となり問題となります。しかし、食べものではこの組み合わせが美味しいわけです。この当時の鰻の味を求めて、数十年後に、ウナギの産地の鹿児島の鰻屋、東京の鰻屋、宮城県登米町の鰻屋や山形県酒田市の鰻屋を尋ねました。未だに、当時の鰻の記憶に追いつける味には出会っていません。比較的近い味は、酒田市の鰻屋さんでした。これは、大きな鰻を使用し、江戸流の蒸しと焼きを行っているうえに、たれが幼い頃の鰻屋の味に近いためだと思います。
 そんな街に、蕎麦屋ができたのは、小学生の低学年の頃であったと思います。私の祖父は多趣味で、魚釣り、ランチュウ養殖、盆栽造りやうどんを打ちました。そばは打ちませんでした。その理由は分かりません。しかし、そばが大好きだったようで、近くに蕎麦屋ができるとそこに良く連れていかれました。頼むのは、もりそばでした。その蕎麦屋さんは、一茶庵という店でした。片倉康雄(1988 片倉康雄)さんの一茶庵で修行をした方が、私の町に店を出したのでした。私とそばとの出会いは、この一茶庵だったのです。ここで食べた「もりそば」は、今まで食べていた「かけうどん」と違い、蕎麦とそば汁が別々に出てきました。かけうどんに慣れていた私にとって、これが不思議でした。この冷たい蕎麦と、甘辛くて濃い汁が大好きになりました。私にとってそばと言えば、一茶庵のそばが基になっているのだと思います。蕎麦そのものの味は余り記憶に残っていませんが、そば汁の記憶は鮮明に残っています。大変濃い汁(辛い汁)でした。この一茶庵は、今は無くなりましたが、蕎麦屋の系図(2011 岩崎信也)より、この店だったのだと改めて認識しました。このもりそばを、すんなりと受け入れたのは、鰻のかば焼きの味に近い、タンパク質と甘辛さの融合によるのだと思います。もりそばには、鰻の脂が無いので、あっさりとした味になりますが、甘辛さは同じと捉えたのだと思います。
 我が家は、商売をしていたので、誰かお客様が来られて、店が忙しいと出前を頼まざるを得なくなります。すると、一茶庵からもりそばが届くという仕組みでした。お客様が来て夕方になり、まだ居られると、しめしめと思ったものです。こんな時の夕ご飯は、一茶庵のもりそばでした。私にとって、そばと言えば、一茶庵から届く出前のもりそばでした。蕎麦が少し伸びて、くっついているのを、つゆに付けて頂くのがそばでした。そばの香りとつゆの濃い甘辛味が、妙に好きでした。
 さてさて、今、私の目の前に、祖父が良くやっていた四角い板と麺棒があります。これらを使って、そばを打つのです。本当にできるのだろうかと風声鶴唳(ふうせいかくれい)の気持ちでした。全く初めてでも、本当にそばを打つことが出来るのでしょうか。

(参考文献)
1988 片倉康雄 片倉康雄-手打そばの技術―一茶庵・友蕎子 旭屋出版
2011 岩崎信也 蕎麦屋の系図 (光文社知恵の森文庫) 光文社

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